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3.平安時代以降の大宰府
「人物殷繁(いんぱん)にして、天下の一都会なり」(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)と自ら誇った大宰府も変質していきます。
帥は任命されても赴任(ふにん)せず、実際に現地で府政にあたったのは、権帥(ごんのそち)や大弐(だいに)でした。時代が下ると、実権はさらに下級官人に移っていきます。このようなことから府官人の土着化あるいは土豪の府官人化が進みました。
天慶(てんぎょう)4年(941)伊予の海賊藤原純友(すみとも)に攻められ大宰府は焼け落ちますが、この時追捕使(ついぶし)として活躍した大蔵(おおくらの)春実(はるざね)も土着し、子孫は府官を世襲しました。
一方焼失した大宰府はもう一度再建されました。現在残る礎石はこの時のものです。
平安時代も後半になってくると、日宋貿易の利を求め、権門(けんもん)社寺の荘園が北部九州に進出しますが、特に平氏は熱心で、清盛そして弟頼盛と大弐(だいに)に就任し、貿易の権限を掌握しようとしました。
平氏滅亡後、鎌倉幕府の成立により、律令制下の「大宰府」はその機能を停止しました。大宰府がいつ廃絶したかはっきりした時期はわかりませんが、近年の発掘調査によると政庁域は12世紀の前半にはかなり荒廃していたのではないかと考えられています。
7世紀後半から約500年続いた大宰府は、ここに終わりを告げます。しかし建物としての大宰府はなくなっても、権威としての「大宰府」は生き続け、鎌倉幕府の守護また鎮西奉公(ちんぜいぼうこう)として下ってきた武藤(むとう)氏は大宰少弐となることによって名実共に九州を支配しました。大宰府を居城とし、後に武藤改め少弐(しょうに)を称するようになるのも、その権威故だったのでしょう。
南北朝時代に、菊池氏が助ける南朝の征西府(せいせいふ)が一時置かれたのも、戦国時代、少弐氏に対抗するため周防(すおう)の大内氏が大宰大弐を熱望し、義隆(よしたか)が補任されたのも、権威の力といえるでしょう。