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2.遠の朝廷-大宰府

ページID:0001009 更新日:2016年9月1日更新 印刷ページ表示

8世紀になると大宰府は、日本が律令国家へと体制を整えるに従い、官の組織が整備され、当初の対外防衛的色彩の濃いものから、外交そして九州全体を治める律令制下最大の地方官衙(役所)へと変っていきます。
中心の建物も礎石を使い、瓦を葺(ふ)いた大陸風の立派なものに変わります。
そこに働く官人は、令に規定されている者だけでも50名に及び、その他雑務に携わる者などを入れるとその数は1000名を超えたといわれます。

また長官の「帥(そち)」をはじめ府官人の位階(いかい)は諸国司より高く、経済的にもかなり優遇されていました。
それは大宰府の特殊性の故でしょう。西海道諸国の国司や郡司の選考権を持ち、調庸などの税も九州中から集められるなど大宰府は九州全体を統轄し、各国の内政に深くかかわりました。

「しらぬひ筑紫の綿は…」と、万葉集に詠(よ)まれた真綿(まわた)も調の税目の一つで、一旦府庫に収められ一定量が京へと送られ、残りが府用に充(あ)てられました。
この調庸の出納を担当した蔵司(くらのつかさ)は政庁の西の丘にあり、匠(たくみ)司、貢上染物所(こうじょうそめものしょ)などといった多くの役所も政庁の周辺に建ち並んでいたと考えられます。

政庁の東にあった学校院では、大宰府管内の郡司の子弟たち200余名が官吏になるために漢籍・算術・医学を学んでいました。

また、外国からの使節を迎え、あるいは日本から外国への使節を送り出すという対外交渉の窓口としての仕事も大宰府の重要な役割でしたが、現在の福岡市平和台にあった鴻臚館(こうろかん)はその施設です。
天平7年から天平9年、大宰府管内から始まった天然痘の流行は全国に及び、公卿(くぎょう)らの死も相次ぎ、京に大きな爪痕を残しました。

これが一つの遠因となって、天平12年(740)大宰少弐(しょうに)藤原広嗣(ひろつぐ)が、玄ぼう(げんぼう、ぼうは日偏に方)と吉備真備(きびのまきび)の排除を求めて挙兵しますが、乱は鎮定され、彼は処刑されます。
しかし、この事件は京にショックを与え、聖武天皇は恭仁(くに)京へ、紫香楽(しがらき)宮へと転々とし、大宰府も天平14年から17年までの間廃止されます。

このような混乱期を経て、天平18年(746)、80年の歳月をかけた観世音寺が完成します。
そして天平宝字(ほうじ)5年(761)には、日本に3ヶ所だけの戒壇(かいだん)の一つが置かれ(戒壇院)、観世音寺は名実ともに「府の大寺」としてその大伽藍(だいがらん)を輝かせました。

また大宰府政庁の西北、大野山の裾野には筑前国分寺・国分尼寺が建立されました。

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