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電子展示室
太宰府市公文書館が所有する行政資料・地域資料を展示しています。
六座目録(文書)
戦国時代の大宰府には市が立ち、人々が集まって商業を営んでいました。
宰府六座とは、かつて太宰府にあったとされる米屋・金屋・小間物屋・相物屋・紺屋・鍛冶屋の座のことです。「六座目録」(高嶋家文書1)は六座の由緒を記した文書で、不明なことの多い中世大宰府の商人・職人の活動を今に伝えています。
この史料によると、六座は毎年6月15日、市の繁昌のため、観世音寺と太宰府天満宮で能5番を奉納していました。黒田如水(官兵衛)が宰府に隠居した際、六座の者に面会し、「名有るもの」として、鑓1筋を6人に渡したといいます。
この史料は太宰府市公文書館で写真を閲覧できます。
太宰府の在村医、中川昌澤の経歴書
「〔郡役所への書上控え〕」(中川家文書6-19)は、幕末維新期に中川家の当主をつとめた中川昌澤の経歴書です。昌澤は初代から数えて四代目であり、内科を専門としていました。幼少期から太宰府で学問稽古を始め、亀井雲来・江上苓洲といった福岡藩において蘭学の嚆矢となった学者のもとで学んでいます。福岡藩医の上村尚庵や典薬寮医師の川越佐渡守など高名な医師の名も見られ、その稽古期間は11年に及びました。藩内で学んだのち太宰府に戻って兄とともに医業にたずさわり、その後京都へ遊学しているという点も興味深いです。
また、昌澤は延寿王院抱えの医師であったことも分かります。近世期の医師には、朝廷や幕府に仕える者(典薬寮医師、幕府医員)、各藩に仕えている者(藩医)、町人身分や百姓身分の者(町判・村判の医師)などがいましたが、昌澤の場合は延寿王院判元という、社家判の医師でした。当時の太宰府天満宮では、仏師、絵師、表具師などさまざまな技能を持つ者たちが社家に抱えられ存在しており、昌澤は医師として延寿王院に抱えられている身分であったと言えます。
以上のように、この経歴書からは昌澤がさまざまな医師に就いて稽古を行い高い水準の知識を備えていたことや天満宮社家判の医師として存在していたことが分かり、太宰府の在村医の実態が見て取れるのです。
注意札建設願(文書)
こんなお仕事してました
旧水城村の場合
太宰府阯注意札建設願
大正14(1925)年12月
国指定の史跡地を抱える水城村(当時)では、史跡地内に「注意札」を掲げる、という業務もありました。これは、水城村が県に提出した願書の写しです。
なんとこの看板、設置費まで含めておよそ22円。お米に換算すると、4斗6升位。
まるで時代劇にみる、御触書のようではありませんか?
注意札文案
注意
一 食殻紙片等ノ汚物ヲ散乱セザルコト
但 塵溜ニ投入スルコト
一 礎石付近ニ於テ焚火セザルコト
一 史蹟地内ハ道路以外猥リニ諸車牛馬
ヲ入レザルコト
右
大正○年○月○日 福岡縣
昭和はじめの水城跡(絵葉書)
大正10(1921)年、全国で初めて大宰府政庁跡と水城跡が史跡指定をうけます。
その前年の4月6日、東宮時代の昭和天皇が水城を訪れ感銘を受け、敷粗朶(しきそだ・土塁の安定性を確保するため敷き並べられた樹木の枝葉)2葉を記念に持ち帰った、と当時の新聞が報じています。
この絵はがきに写る水城跡は、昭和はじめ頃の姿と思われます。
昭和はじめの筑前国分寺跡(絵葉書)
筑前国分寺跡は、大正11(1922)年に史跡指定をうけました。
絵はがきの左手前にあるのはそのことを記した碑で、「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ/大正十一年十月内務大臣指定」とあります。
奥に見えるのは、昭和3(1928)年に建てられた「聖武帝勅建筑前国分寺碑」です。
この二つの碑は、少し位置を変えてはいるものの、今も現地で見ることができます。
高橋紹運公350年奉賛事業(文書)
昭和13(1938)年、戦国武将・高橋紹運のお墓そばに建てられた「侍従武官御差遣記念碑」の建設願いです(昭和10年10月20日)。
当時、岩屋城二の丸跡の墓所には「侍従武官手植えの松」があったそうです。
実は、この建碑をめぐってはひと騒動ありました。
詳しくは、公文書館だより~太宰府の文華~7「高橋紹運墓所の石碑のお話」(PDF:140KB)。
がんばってます!行政文書の保存!
太宰府市は、地域史料(家や土地に伝わる歴史資料)とあわせて、行政文書(役場・役所が業務のため作成した文書)の保存・活用を行っています。
行政文書は、その地域に住む人々が歩んできた道程を現在に伝える、大切な歴史的・文化的資料の一つです。近年、その適切な保存に向けて、全国の自治体でも真剣な取り組みが始められつつあります。