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古代の太宰府(飛鳥・奈良時代)

ページID:0011930 更新日:2024年5月13日更新 印刷ページ表示

7世紀・飛鳥時代の太宰府 ―水城・大野城の築造―

660年、倭(わ)(日本の旧国名)と親交の深かった朝鮮半島の百済(くだら)が唐(とう)・新羅(しらぎ)に滅ぼされ、倭に助けを求めてきました。斉明天皇は百済を救援するために九州に来ますが、間もなく亡くなってしまいます。代わって皇太子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(のちの天智天皇)が指揮をとり、百済を支援する軍勢を派遣するものの、倭・百済連合軍は白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗してしまいます。

白村江の戦いの地図
7世紀後半の東アジアの勢力図

敗戦のショックは大きく、逆に唐・新羅連合軍から攻められることを恐れた倭は、大急ぎで防衛体制を整えます。水城(みずき)・大野城(おおのじょう)・基肄城(きいじょう)といった防衛施設を築き、博多湾沿岸にあった拠点を内陸である現在の太宰府市域に移しました。なかでも水城は、全長1.2キロメートル・高さ10メートルの土の防壁と、前後に水を張った濠(ほり)によって敵軍を防ごうとしたものです。これだけの巨大な防衛施設を、白村江の戦いからたった1年で築いたところに、当時の日本の危機感が表れています。これらの防衛施設の造営には、百済から倭に逃れてきた人々の知識や技術が活かされました。
結果的には、唐と新羅が決別したため、倭が侵攻を受けることはありませんでした。この後も朝鮮半島では争いが続きますが、倭は介入せず、国力を増やすことに専念します。

古代大宰府の復元図
8世紀頃の太宰府市域周辺の図。自然の地形を活かした防衛施設が築かれています。

8世紀・​奈良時代の太宰府 ―遠の朝廷―

「大宰府」の成立

大宝元年(701)、日本は中国にならって「大宝律令(たいほうりつりょう)」という法律をつくって国家体制を整えます。日本という国号が定まったのもこの頃です。このとき、九州の政治・外交・軍事を担う役所として「大宰府(だざいふ)」が設置されました。当時、都から離れた場所に置かれた出先機関のことを「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼んでおり、そのなかでも大宰府は最大規模のものでした。

大宰府の中核となったのが、重要な政務や儀式を行う大宰府政庁(観世音寺4丁目)です。礎石のうえに大きな柱を建て、屋根には瓦を用いる、大陸風の立派な建物でした。この建物のことは、10世紀の菅原道真(すがわらのみちざね)の漢詩にちなんで「都府楼(とふろう)」とも呼ばれます。
政庁の周辺には、役人が実務を行う役所、税を納める倉庫、役人養成学校などが広がっていました。政庁の南側には碁盤の目のように区画整理された都市が広がり、大宰府で働く役人たちの住まいや市場などで大いににぎわっていました。その一角には、外国の使節をもてなすための「客館」も置かれました。来日した外国使節に日本が先進的な国であると示すためにも、大宰府には立派な施設が建てられていたのです。

大宰府政庁の南門の再現画像
VRで再現した大宰府政庁の南門

参考 「大宰府」と「太宰府」

古代の役所は「宰府」、現在の地名は「宰府」を用います。
詳しくは「「大宰府」と「太宰府」のちがいについて教えてください」をご覧ください。

文化が薫るまち

大宰府が行う外国との交流・交易によって、海外の文物や文化が日本にもたらされました。九州各地からの人や物もあふれ、これらは都や全国に運ばれています。また、大宰府の高官として赴任した都の有力貴族によって、雅な宮廷文化がもたらされました。

なかでも有名なのは、大宰府の長官として都からやってきた大伴旅人(おおとものたびと)が開催した「梅花の宴(ばいかのえん)」です。唐から渡ってきたばかりの珍しい梅をめでながら、酒を飲み歌を詠んだのです。この宴は日本最古の歌集である『万葉集(まんようしゅう)』に掲載され、元号「令和」の典拠ともなっています。旅人をはじめとした歌人たちが残した多くの歌は大宰府に豊かな文化を育み、今に繋がっています。

梅花の宴のジオラマ写真
「梅花の宴」を博多人形で再現したジオラマ。
山村延■(のぶあき。■は火へんに華)氏製作、大宰府展示館所蔵

大宰府の仏教

奈良時代には、伝染病や飢饉(ききん)などの災いから国を守って人々の不安を取り除くために、仏教の力で国を守ろうとしました。そこで、九州の政治の中心であった大宰府は、九州の仏教の中心としても発展することになります。

その中核となったのは「府の大寺(ふのおおでら)」とも呼ばれた観世音寺(かんぜおんじ)です。観世音寺は、7世紀後半に天智天皇が母の斉明天皇の供養のために創建した寺院で、約80年の歳月を経た天平18年(746)に完成しました。さらに、日本の依頼に応えて唐から来日した僧・鑑真(がんじん)は、正式な僧侶になるための儀式を行う「戒壇(かいだん)」を観世音寺に設置しました。当時、戒壇は日本に三か所しかなく、僧侶を目指す多くの人が観世音寺を訪れることになりました。こうして、観世音寺は九州の仏教の中心を担う大寺院として発展し、現在まで続いています。

また、仏教の力で国を守るために、全国に国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)が造られました。太宰府地域には、政庁の北西(国分3・4丁目)に筑前国の国分寺と国分尼寺が建てられました。国分寺には高さ50mを超える七重塔が造られ、大宰府を訪れる人々を出迎えていました。

国分寺の塔の復元模型の写真
筑前国分寺の七重塔の10分の1復元模型(太宰府市文化ふれあい館)

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