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近現代の太宰府
19~20世紀・近現代の太宰府
行政組織のうつりかわり
明治時代になって江戸時代までの制度が改められるなかで、行政区画も再編されました。何回かの試行錯誤の結果、明治22年(1889)に江戸時代の宰府村・内山村・北谷村の3村が合併して太宰府村(明治25年に太宰府町)となり、観世音寺村・坂本村・通古賀村・片野村・国分村・水城村・大佐野村・向佐野村・吉松村の9村が合併して水城村となりました。
戦後、昭和28年(1953)から行政事務の効率化を目的として大規模な町村合併が推進され、それまで約1万存在した市町村数は、およそ3分の1に減少しました(昭和の大合併)。太宰府周辺でも様々な議論を経て、昭和30年に太宰府町と水城村が合併して新「太宰府町」が誕生しました。
その後、昭和57年に太宰府町が太宰府市となり、現在に至ります。
明治26年の福岡県の地図から、太宰府町・水城村を含む御笠郡部分を抜粋したもの。
出典:福岡県立図書館デジタルライブラリ「福岡県の近代地図」<外部リンク>収録の「福岡県管内里程便覧地図」(明治26年)
大宰府跡の顕彰
江戸時代には古代大宰府が政治の中心であったという憧れの視線はあったものの、現実の政庁跡には耕作地が広がっていて、古代の礎石や瓦も持ち去られて荒廃するばかりでした。明治~大正期には、そうした状況を憂いた人々により、歴史ある大宰府跡が人々に忘れられていくことを防ぐために大宰府を顕彰する石碑が建てられました。大宰府政庁跡の中心にある正殿跡には、現在も3基の石碑が残っています。
昭和になると、学校では『郷土読本』などを用いて遺跡や文化財が郷土の誇りとして伝えられるようになり、大野城跡や大宰府政庁跡は学校遠足で訪れる場所となりました。いまでも、市内外から多くの遠足や修学旅行の子どもたちを迎えています。
大宰府政庁跡に建つ三基の石碑
碑文の詳細などは古都大宰府保存協会HP「大宰府政庁跡に立つ三基の石碑」<外部リンク>をご覧ください。
高度経済成長と遺跡保護
昭和40年(1965)頃から、戦後日本の高度経済成長により日本全国で大規模な開発が行われました。太宰府も例外ではなく、道路建設や宅地開発によって古代の遺跡が失われる恐れが出てきました。
そこで、国は大宰府跡・水城跡・大野城跡をはじめとする遺跡を守るため、それまで非常に狭い範囲だけを史跡に指定していたのを改めて、大幅な拡張指定をすることにしました。もっとも、史跡に指定されると開発が規制されて遺跡は守られますが、地元住民にとっては「道路が通らない」「土地を売れない」などの生活上の不安を引き起こしたことから、史跡指定に反対する運動が起こりました。
こうしたなか、史跡の重要性について地元住民の理解を得るために、遺跡の価値を解明するための発掘調査が始まります。その指揮をとった藤井功(ふじいいさお)氏が地元住民と熱心に対話を続けたことで、少しずつ両者の歩み寄りがなされていきました。地元の人々も参加した発掘調査の結果、それまでは「941年の藤原純友の乱で大宰府政庁が焼失しても再建できないほどに律令制が弱体化していた」と考えられていたのが、実は乱後に政庁が再建されていたと判明し、日本古代史を塗り替える大きな成果となりました。こうした成果もあって史跡の重要性と指定の必要性が認識されるようになり、現在の歴史豊かな太宰府の姿につながっています。