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近世の太宰府

ページID:0033997 更新日:2024年5月13日更新 印刷ページ表示

17世紀~19世紀・江戸時代の太宰府

戦乱からの復興

戦国時代に荒廃した太宰府も、戦乱の終わりと共に復興を迎えます。焼失した安楽寺天満宮(あんらくじてんまんぐう)(現在の太宰府天満宮)や観世音寺(かんぜおんじ)の建物も再建されました。

江戸時代の太宰府は、関ヶ原の戦いで戦功のあった黒田長政(くろだながまさ)を初代藩主とする福岡藩の支配下に入りました。
長政の父で、豊臣秀吉の参謀として活躍した黒田如水(官兵衛)(くろだじょすい・かんべえ)は、福岡城ができるまでの3年間、天満宮の近くで隠居生活を送りました。如水は、複数の人が集まって「5・7・5」と「7・7」を分担して和歌を詠む「連歌(れんが)」に関心を持っていました。天満宮の祭神である菅原道真(すがわらのみちざね)は連歌の神様としても信仰をあつめていて、如水も天満宮に集う連歌師との交流を楽しむ日々を送っていたようです。

太宰府天満宮本殿の写真
豊臣政権下で小早川隆景が再建した太宰府天満宮の本殿(重要文化財)
文化財保存のため令和8年まで改修工事中

さいふまいり

江戸時代の太宰府は静かな田園風景が広がる農村になりましたが、太宰府天満宮とその門前町は多くの参拝者でにぎわいました。
この頃、人々の生活が安定して交通網が発達したことで、全国各地の名所見物を楽しむ観光旅行が庶民の間で流行していました。太宰府天満宮には多くの「さいふまいり」の参拝者が訪れ、都府楼跡(とふろうあと)(大宰府政庁跡)、観世音寺(かんぜおんじ)、宝満山(ほうまんざん)、四王寺山(しおうじやま)、水城(みずき)などの名所旧跡を巡りました。彼らが残した紀行文からは、古代の政治の中心であった大宰府は好奇心の対象であったことがうかがえます。

梅が枝餅の写真
現在の太宰府土産として有名な梅が枝餅。
規格が統一されたのは戦後のことですが、すでに江戸時代には「やきもち」が名産でした。

幕末の五卿

江戸時代の末、幕府が外国の圧力に負けて開国したことで人々は不満を持つようになり、朝廷に政権を取りもどし(尊皇そんのう)、外国を追い払おう(攘夷じょうい)という運動が起こります。政情不安のなか、文久3年(1863)には三条実美(さんじょうさねとみ)など尊王攘夷派の貴族5人(五卿ごきょう)が失脚して京都から太宰府に送られてきます。太宰府天満宮に滞在した五卿のもとには西郷隆盛(さいごうたかもり)・坂本龍馬(さかもとりょうま)・高杉晋作(たかすぎしんさく)といった志士が集い、明治維新の計画を練ったと伝えられます。こうしたことから、太宰府は「明治維新の策源地さくげんち」とも呼ばれています。

三条実美の写真
​五卿のリーダー三条実美(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」<外部リンク>

西郷隆盛の写真
明治維新で活躍した西郷隆盛(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」<外部リンク>

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