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中世の太宰府
13世紀・鎌倉時代の太宰府
平氏滅亡後、源頼朝によって鎌倉を中心とした武家政権が誕生します。頼朝の下で活躍した武藤資頼(むとうすけより)は、九州の支配を任されて大宰府にやってきます。資頼は大宰府の次官である「大宰少弐(だざいのしょうに)」の役職を得ることで、名実ともに九州支配の最高責任者となりました。武藤氏は大宰少弐を世襲して九州を支配し、ついには名を少弐氏と改めます。古代の役所としての大宰府は終焉を迎えましたが、そこに連なる役職は重要な意味を持ち続けていたことを物語ります。
13世紀末、中国の元軍が日本に攻めてきた蒙古襲来の時には、資頼の孫の少弐景資(しょうにかげすけ)が日本軍の総大将を務めました。このとき、元軍に苦戦する日本軍は博多から水城まで退却したという記録が残っています。
武藤資頼の墓と伝えられる五輪塔(福岡県指定文化財。観世音寺4丁目)
14~16世紀・室町時代の太宰府
蒙古襲来を機に、不満を持つ武士が鎌倉幕府を滅ぼし、さらに全国の武士が二つに分かれた争いが始まります(南北朝の戦い)。この戦いのなかで、太宰府は多くの武将が集まる戦乱の舞台となりました。足利尊氏(あしかがたかうじ)も、畿内での戦に敗れた後に太宰府に逃れて力を蓄え、再起して室町幕府を建てたのです。
その後も長く続く争いのなかで、懐良親王(かねよししんのう)や今川了俊(いまがわりょうしゅん)といった名だたる武将が太宰府をめぐって争いました。ただ、次第に政治の中心は博多(現在の福岡市博多区)に移り、政治・外交の中心地としての大宰府は役割を終えていきます。
今川了俊が家臣に対して、対立勢力による侵略行為をやめさせるよう指示した書状(市指定文化財、個人蔵)
16世紀・戦国時代の太宰府
室町幕府が衰退すると日本各地で戦国大名が台頭し、支配地域の拡大を目指して戦いが繰り広げられます。太宰府は、大内氏、大友氏、毛利氏、島津氏といった九州・中国地方の戦国大名の戦いの場となりました。戦いに巻き込まれ、太宰府天満宮や観世音寺といった名だたる寺社も焼失し、荒廃してしまいました。
なかでも、天正14年(1586年)の「岩屋城の戦い」は激戦でした。この頃、中央では豊臣秀吉が圧倒的な勢力を築いていました。九州では、南部を拠点とする島津氏が九州統一を目指して北進しており、北部を支配していた大友氏は秀吉に援軍を頼みます。秀吉の援軍が到着するまでに九州統一を果たしたい島津氏と、援軍が来るまでに持ちこたえたい大友氏が、太宰府の地で激突しました。大友氏の家臣であった名将・高橋紹運(たかはしじょううん)は5万人の島津軍をわずか763人で迎え撃ち、四王寺山の岩屋城に籠城して奮戦するも全員討ち死にしたと伝わります。この激戦で被害を受けた島津軍は秀吉軍に備えるために北部九州から撤退し、援軍として到着した秀吉軍に降伏することとなりました。岩屋城をめぐる戦いは、歴史の転換点となったのです。
岩屋城で戦死した紹運家臣の子孫が岩屋城跡に建てた石碑