本文
古代の太宰府(平安時代)
9~12世紀・平安時代の太宰府
対外交流の拠点
9世紀になると、国際環境の変化により外国使節の来日は減りますが、商人の活動が活発になります。多くの外国商人が来訪した大宰府は、8世紀から引き続き対外交流の拠点として発展しました。彼らが運んだ交易品への熱狂ぶりは、政府が大宰府に対して「舶来品を高値で買って財産を失う人が多いので、適正な価格で取引させなければならない」と命令するほどでした。
時には、大宰府の役人が外国勢力と結託して反乱を計画していたことが発覚したり、博多沿岸が海賊の襲撃を受けたりといった事件も起きますが、そうしたトラブルも含めて大宰府は日本の対外交流の最前線でした。
青磁三足壺(せいじさんそくこ)(重要文化財、個人蔵)。中国浙江省で作られて平安時代初めに日本に伝来した優品です。大正11年に太宰府市通古賀で発見されました。
写真:九州歴史資料館提供
大宰府の変貌
平安時代になると、皇族や上級貴族は大宰府の長官に任命されても現地には来ないようになり、次第に、実務を取り仕切る現地の中下級の役人が権力を持つようになりました。中下級の役人として都から来た人がそのまま土着したり、地元の有力者が大宰府の役人になったりして、奈良時代の律令(りつりょう)にもとづく決まりと現実の社会が大きく違ってきます。
そうしたなかで、天慶4年(941)には、藤原純友(ふじわらのすみとも)が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、大宰府を攻撃して財物を強奪する大事件が起きます。反乱は鎮圧されたものの、政庁や役所の建物が焼失したことは、大宰府にとって大きな被害でした。
既に律令にもとづく大宰府の機能は失われつつあったため、昔の研究では、純友の焼討によって政庁は完全に廃絶したと考えられていました。しかし、発掘調査により、実は焼失した政庁が再建されていたことが判明しました。おそらく、大宰府に関わって権力を持っていた貴族や地元有力者にとって、権力の象徴として政庁という立派な建物が必要であったのでしょう。
現在の大宰府政庁跡の様子。藤原純友の焼討後に再建された建物の礎石が残っています。
平氏政権を支えた太宰府
大宰府は変貌しつつも、九州の中心であり続けました。
12世紀後半、武士として初めて実権を握った平清盛(たいらのきよもり)の経済的基盤のひとつは、大宰府でした。平氏は清盛の祖父や父の代から大宰府に勢力を伸ばしており、清盛は大宰大弐(だざいのだいに)(大宰府の実質的な長官)に就任することで貿易の富を独占します。清盛の後は弟の頼盛(よりもり)も大宰大弐に就任し、大宰府は平氏の栄華を支える重要な拠点になっていました。
しかし、清盛の死後、政治や富を独占する平氏政権に不満を抱いた武士によって平氏は都を追われます。拠点の大宰府で再起を図る計画だったようですが、大宰府でも攻められて敗走し、最終的には壇ノ浦の戦い(山口県下関市)で滅亡を迎えることになりました。
14世紀に描かれた平清盛の肖像画
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム<外部リンク>『天子摂関御影』(重要文化財、宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)