本文
市内の指定文化財 考古資料
国指定
銅戈鎔笵(重要文化財)
読み/どうかようはん
所在/石坂四丁目7-2 九州国立博物館所蔵
指定年月日/昭和39年5月26日指定
福岡市東区で発見された広形銅戈の鋳型で、全長50センチメートル、戈の長さ40.5センチメートルを測る完形品です。この鋳型から鋳造される銅戈の形から、弥生時代後期後半頃のものとみられます。
銅釧鎔笵(重要文化財)
読み/どうくしろようはん
所在/石坂四丁目7-2 九州国立博物館所蔵
指定年月日/昭和39年5月26日指定
福岡市東区で発見された有鉤青銅釧の鋳型です。軟かい卵白色の砂岩製で、隅丸方形の上面・裏面にそれぞれ1個の銅釧の雌型が彫り込まれています。
青磁三足壺(重要文化財)
読み/せいじさんそくこ
所在/観世音寺五丁目 個人所蔵
指定年月日/昭和53年6月15日指定
大正11年に通古賀で発見されたもので、口縁部の大部分と獣脚の一部を欠くものの、総高22.1センチメートルで、壺には三本の獣脚が付き、やや暗い黄緑色の釉がかかっています。特徴から中国浙江省の越州窯系青磁とみられ、平安時代初めに日本へ持ち込まれたものと考えられます。
鬼瓦(重要文化財)
読み/おにがわら
所在/石坂四丁目7-2 九州国立博物館所蔵
指定年月日/昭和34年12月18日指定
大宰府政庁跡北方の畑から発見されたもので、全長47.1センチメートルで、右下端部約3分の1が欠損しています。鬼面は肉盛りが厚く、激しい怒りのために逆立つ毛髪、つり上がった眉、四天王のような鋭い目、深い眉間のしわ、厚く盛り上がった頬、口を大きく開いた忿怒相(怒った顔)は、他では見ることのできない大宰府独特のものです。奈良時代前半に建てられた政庁の屋根に使われたと考えられます。
蓮華唐花文塼(重要文化財)
読み/れんげからはなもんせん
所在/宰府四丁目7-1 太宰府天満宮所蔵
指定年月日/昭和36年6月30日指定
塼は板状の焼き物で、基壇などに用いられました。これは「都府楼跡」付近から発見されたと伝えられていますが、発掘調査ではその大部分が学校院跡から出土しています。文様的に新羅の影響を強く受けたものとみられます。奈良時代中頃のものです。
県指定
滑石硯
読み/かっせきけん
所在/宰府四丁目7-1 太宰府天満宮所蔵
指定年月日/昭和36年1月14日指定
昭和34年に天満宮境内で工事中に発見されたものです。形が漢字の「風」に似ていることから風字硯と呼ばれる硯で、長さ15.8センチメートル、硯頭幅約10センチメートルを測ります。滑石は平安時代に石鍋などに多く用いられますが、滑石製の硯はあまり例がありません。
銅製経筒
読み/どうせいきょうづつ
所在/宰府四丁目7-1 太宰府天満宮所蔵
指定年月日/昭和32年8月13日指定
鋳銅製の経筒で、蓋は宝珠形のつまみの付いた六角形の被せ蓋で、蓋を被せた総高は30.3センチメートルになります。筒身には経塚造営の主旨や長治3(1106)年などの銘文が刻まれています。六角形の蓋が付く円筒形経筒は珍しいものです。太宰府市坂本から出土したものです。
石製経筒
読み/せきせいきょうづつ
所在/宰府四丁目7-1 太宰府天満宮所蔵
指定年月日/昭和32年8月13日指定
明治22年に現在の佐賀市大和町で発見され、天満宮に奉納された滑石製の経筒です。筒身は円筒形で、経巻を納入するために内側が円柱状に穿たれています。蓋は四角形の屋根形で、蓋を被せた総高は38.4センチメートルになります。紀年銘がありませんが、特徴から平安時代末のものと考えられます。
瓦経
読み/がきょう
所在/宰府四丁目7-1 太宰府天満宮所蔵
指定年月日/昭和30年3月12日指定
お経を粘土板に刻んで焼いたものです。福岡市西区の飯盛山山頂から出土したもののうち7点で、県立糸島高校が所有する共伴品から、平安時代末の永久2(1114)年に作られたものと分かっています。
太宰府安養院跡五輪塔残欠
読み/だざいふあんよういんあとごりんとうざんけつ
所在/観世音寺四丁目16
指定年月日/昭和37年4月19日指定
観世音寺北西の安養院跡にある大宰少弐武藤資頼の墓と伝えられる凝灰岩製の五輪塔です。高さ75.5センチメートルのこの塔は一石で造られ、さらに水輪を球形にするものを、八方の隅をカットする全国唯一の工法を用いています。鎌倉時代中期の作と考えられます。武藤資頼は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将です。
蒙古碇石
読み/もうこいかりいし
所在/宰府四丁目7-1 太宰府天満宮所蔵
指定年月日/昭和44年5月1日指定
蒙古の軍船の碇として使用されたとされる石で、全長222センチメートル、碇軸装着部幅16.5センチメートル、固定軸幅4×深さ1センチメートル、中央部幅30×厚さ17センチメートル、先端部幅20×厚さ14.5センチメートル、重量260キログラムの花崗岩製で、表面はやや粗いノミ痕を残しています。出土地は不明です。
市指定
鬼瓦
読み/おにがわら
所在/観世音寺四丁目6-1 大宰府展示館(太宰府市教育委員会所蔵)
指定年月日/昭和59年10月8日指定
水城跡に関連した鬼瓦とみられ、昭和56年に水城跡と交差する御笠川岸で工事中に発見されました。高さ49.7センチメートルで、一部欠損、磨滅しています。重要文化財に指定されている大宰府政庁跡北東出土の鬼瓦と同じタイプのものです。
銅製経筒 経巻共 附 陶製外容器
読み/どうせいきょうづつ きょうかんとも つけたり とうせいがいようき
所在/国分四丁目9-1 太宰府市教育委員会所蔵
指定年月日/昭和59年10月8日指定
昭和57年、四王寺山麓の大字太宰府字原にて、工事中に偶然発見されたものです。経筒は銅鋳製経筒で、筒身は高さ26.6センチメートルで、細い三段の突帯をもちます。外容器は瓦製円筒形で、経筒に合わせて造られた専用品とみられます。経巻は傷みが激しく開くことはできません。
宮ノ本丘陵古代墓地出土品
読み/みやのもときゅうりょうこだいぼちしゅつどひん
所在/国分四丁目9-1 太宰府市教育委員会所蔵
指定年月日/平成22年9月9日指定
宮ノ本丘陵(向佐野)で調査された古代大宰府の役人墓地(約100基)から出土した遺物です。買地券をはじめ八稜鏡や唐式鏡、土師器・黒色土器などの坏や椀が埋納され、その数は合わせて1600点を超えます。その中でも買地券は埋葬習俗に基づく土地売買契約書で、長さ35.2センチメートル、幅9.5センチメートル、厚さ0.2センチメートルの鉛板の表面に96字の文字が残されています。現在買地券は全国で2例しか知られてなく、学術的価値が極めて高いものです。
神ノ前窯跡出土瓦 附 2号窯出土土器
読み/かみのまえかまあとしゅつどがわら つけたり にごうがましゅつどどき
所在/国分四丁目9-1 太宰府市教育委員会所蔵
指定年月日/平成22年9月9日指定
神ノ前遺跡(吉松)の登窯から出土した瓦は、西暦600年前後に製作されたとみられる日本最古級のもので、軒丸瓦、丸瓦、平瓦など約68点が出土しています。この瓦には須恵器の製作技法と共通の調整痕が残され、初期の瓦製作技法を知る上で貴重なものです。
また、瓦と共に出土した須恵器類は瓦の年代推定の根拠資料として附指定されています。
正平八年銘法華曼茶羅板碑
読み/しょうへいはちねんめいほっけまんだらいたび
所在/大字太宰府
指定年月日/平成22年9月9日指定
四王寺山中腹にある水瓶山(標高212メートル)の山頂に所在します。高さは1.55メートルで、将棋の駒形に作られた板状の花崗岩に、正平8(1353)年の銘と法華曼荼羅の梵字が14字刻まれています。年号のわかる板碑では市内最古で、法華曼荼羅を刻む珍しいものです。現在風化が目立つため、白い覆屋の中に保存されています。
正平廿三年銘梵字板碑
読み/しょうへいにじゅうさんねんめいぼんじいたび
所在/三条一丁目
指定年月日/平成22年9月9日指定
高さ1.36メートルの花崗岩の自然石に、梵字と「正平廿三年 八月四日 庿院宮師 快嘉律師 二十有九」と5行23字の銘文が刻まれています。正平23(1368)年に建てられた板碑は、年号のわかる板碑では市内で2番目に古いものです。
文明拾八年銘梵字板碑
読み/ぶんめいじゅうはちねんめいぼんじいたび
所在/五条二丁目
指定年月日/平成22年9月9日指定
五条交差点の南、五条構口跡にある庚申塔と並んであります。高さ1.06メートルの平らな花崗岩に梵字と「■主 ■■室叟 ■文明拾八稔 ■■廿六日」の文字が刻まれています。文明拾八稔は1486年のことで、年号のわかる板碑では市内で3番目に古いものです。
獣帯鏡
読み/じゅうたいきょう
所在/国分四丁目9-1 太宰府市教育委員会所蔵
指定年月日/平成22年9月9日指定
太宰府の西方に位置する向佐野の宮ノ本遺跡12号墳から出土したものです。この古墳は径約16メートルの円墳で、その主体部は長さ3.97メートルの割竹形木棺でした。鏡は、直径12.9センチメートルで、半肉彫りの四神や獣文が配され、その周囲に雲のような文様である流雲文が巡らされています。これは、およそ2世紀前半頃の製作とみられる中国製の鏡で、全国的にも類例が知られていない貴重なものです。
木印(印面「直嶋」)
読み/もくいん
所在/国分四丁目9-1 太宰府市教育委員会所蔵
指定年月日/平成27年10月20日指定
この木印は、学業院中学校から出土したもので、印面には「直嶋」と陽刻されています。全国的に数少ない古代の私印の中で、木印の出土は極めて少なく、大変貴重です。
銅印(印面「高」注:梯子高)
読み/どういん
所在/国分四丁目9-1 太宰府市教育委員会所蔵
指定年月日/平成27年10月20日指定
この銅印は、筑前国分寺跡から出土したものです。青銅製で「高」(注:梯子高)を陽刻しています。印面は3月3日×2.7センチメートルで、印面の大きさが「方1寸5分以内」という規定内であり、典型的な古代の私印と言えます。
菖蒲浦第1号墳出土品
読み/しょうぶがうらだいいちごうふんしゅつどひん
所在/国分四丁目9-1 太宰府市教育委員会所蔵
指定年月日/平成29年4月10日指定
菖蒲浦第1号墳は、高雄2丁目にあった5世紀の初めに築造されたと推測される径約15~16mの円墳です。主体部の割竹形木棺からは、方格規矩鏡1面、鉄剣1点、鉄刀1点、刀子3点、鉄斧1点、鋤先1点、鉇1点、針1点、勾玉1点、臼玉180点などの豊富な副葬品が見つかっています。その中でも方格規矩鏡には、葛の繊維で織られた葛布が付着しています。これは現存する日本最古の葛布とも言われています。
銭弘俶八万四千塔方立
読み/せんこうしゅくはちまんよんせんとうほうだて
所在/国分四丁目9-1 太宰府市教育委員会所蔵
指定年月日/平成29年4月10日指定
銭弘俶八万四千塔とは、中国五代十国のひとつであった呉越国(907~978)の第5代銭弘俶が造立した小塔の法舎利塔の総称です。
この方立は、原遺跡(三条1丁目)で発見された、銭弘俶八万四千塔の屋根の四隅にある突起です。高さ3.7cmの青銅製で、表面の2面に神将像、裏面には仏龕が表現され、その中に高さ2.1cmの仏坐像が造り出されています。銭弘俶八万四千塔は、全国で11例しか現存していない希少なものです。
脇道遺跡出土旧石器時代石器群
読み/わきどういせきしゅつどきゅうせっきじだいせっきぐん
所在/国分四丁目9-1 太宰府市教育委員会所蔵
指定年月日/令和3年8月30日指定
大佐野の脇道遺跡第4次調査で出土した石器70点です。約1万5千年前から1万2千年前頃の後期旧石器時代後半段階のもので、石器製作に伴う多量の剥片と共にまとまって出土しました。石器群は、台形石器や削器(さっき)・掻器(そうき)といった加工具類が主体で、この時期の九州における編年の基準資料の一つとして評価されています。また、太宰府地域においてもっとも古い人々の活動を示す資料としてたいへん重要です。
宝満山遺跡群出土金銅仏
読み/ほうまんざんいせきぐんしゅつどこんどうぶつ
所在/国分四丁目9-1 太宰府市教育委員会所蔵
指定年月日/令和6年2月29日指定
宝満山から出土した金銅仏2点です。写真左側の仏像は白鳳様式(7~8世紀)と思われる高さ10.5cmの銅造菩薩形立像で、中世に僧が居住した場所の周辺から出土しました。写真右側の仏像は平安時代前期頃(9世紀)と考えられる高さ11.8cmの銅造如来形立像で、最澄が建立した「六所宝塔」の「安西塔」と考えられる場所から出土しました。いずれも同時期の九州では数少ない作例で、信仰の山として発展した宝満山から出土した仏教的要素を持つ遺物としてたいへん重要です。