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文化遺産国分2丁目

ページID:0001822 更新日:2021年8月31日更新 印刷ページ表示

国分小学校裏山の日の出が見える場所

登録番号 E0031
名称 国分小学校裏山の日の出が見える場所
所在場所 国分2丁目(国分小学校裏山)
文化遺産情報 国分小学校裏手に位置する日の出が見える場所。水城台自治会の方々により、初日の出を見に来た人々に御神酒・コンブ・するめのお接待が行われている。元旦が悪天候の場合は中止するが、平成22年の元旦は天気も良く、近隣の方々20名程が拝みに来られた。

国分小学校裏山の日の出の風景と位置図

水城展望台(水城南西方向を見る)

登録番号 E0032
名称 水城展望台(水城南西方向を見る)
所在場所 国分2丁目(国分小学校裏山)
文化遺産情報 国分小学校裏山にある展望台。水城跡が一望できる場所である。

水城展望台からの風景と位置図

史蹟水城跡境界(1)

登録番号 E0043
名称 史蹟水城跡境界(1)
所在場所 国分2丁目(水城跡東門近く)
文化遺産情報 史跡である水城跡と周辺の境界を示すためのもので、水城跡が史跡指定された大正10年(1921年)に設けられたものと思われる。水城跡は大正10年3月3日に内務省によって史跡指定され、その後次々に指定範囲を広げ平成15年(2003年)までに10回の追加指定を受けている。

史蹟水城跡境界画像と位置図

国分小学校下の風景

登録番号 E0044
名称 国分小学校下の風景
所在場所 国分2丁目
文化遺産情報 国分小学校から下り、陣ノ尾古墳の横を入って行った地点にある高台からの景色。尼寺跡を望むと、眼下には田んぼが一面に広がっている。また遠方には天拝山や九千部山が見渡せる絶景ポイントである。

国分小学校下の風景と位置図

千手観音 筑紫四国第九十五番札所

登録番号 E0045
名称 千手観音 筑紫四国第九十五番札所
所在場所 国分2丁目(水城跡東門近く)
文化遺産情報 水城東門近くにある観音堂。石造千手観音坐像(高さ61センチメートル)と石造弘法大師坐像(高さ46センチメートル)を祀っており、筑紫四国第九十五番札所である。現在の木祠は昭和63年(1988年)3月に、国分地区の人々の寄付によって建立されたものである。

千手観音筑紫四国第九十五番札所画像と位置図

史蹟水城跡境界(2)

登録番号 E0046
名称 史蹟水城跡境界(2)
所在場所 国分2丁目(水城跡東門近く)
文化遺産情報 史跡である水城跡と周辺の境界を示すためのもので、水城跡が史跡指定された大正10年(1921年)に設けられたものと思われる。水城跡は大正10年3月3日に内務省によって史跡指定され、その後次々に指定範囲を広げ平成15年(2003年)までに10回の追加指定を受けている。

史蹟水城跡境界画像と位置図

日田街道(博多往還)

登録番号 E0047
名称 日田街道(博多往還)
所在場所 国分2丁目
文化遺産情報 水城跡東門から日田方面に向かっての日田街道。国道3号線(現県道112号線)が開通するまでは、日田街道が主要な幹線道路であった。沿線には博多へ出向く商人たちの宿が建っていた。

日田街道(博多往還)の画像と位置図

姿見の井

登録番号 E0049
名称 姿見の井
所在場所 国分2丁目
文化遺産情報 延喜元年(901年)、菅原道真が大宰府へ西下した際、身支度を整えるため自らの姿を池に映したと言われている。近年の調査により、明治期以降に造られた幅1.5メートル、奥行2.5メートルの石組み池跡が確認された。現在は歴史的風致維持向上計画に基づき、「姿見井」として復原されている。

姿見の井画像と位置図

衣掛神社(衣挂天神)

登録番号 E0050
名称 衣掛神社(衣挂天神)
所在場所 国分2丁目
文化遺産情報 延喜元年(901年)、菅原道真が大宰府へ西下した際、身支度を整えたと伝えられる場所。「衣挂の石・松」、姿見の井が周辺に残る。拝殿扁額は、かつてあった衣挂けの松を使用。文化9年建立の鳥居扁額が衣を挂けるという字義を忠実に表現している。「掛ける」は、本来掛け軸など物を掛ける意味。

衣掛神社画像と位置図

水城の関(水城東門の礎石)

登録番号 E0051
名称 水城の関(水城東門の礎石)
所在場所 国分2丁目(水城東門跡の公園)
文化遺産情報 水城に設けられた東西2か所の内、東側にある門の礎石。東門の礎石は、本来の位置から移動している可能性が強い。旧国道3号線沿いの石囲いした中にある。

水城東門の礎石の画像と位置図

衣掛神社(衣挂天神)焼納祭

登録番号 E0052
名称 衣掛神社(衣挂天神)焼納祭
所在場所 国分2丁目 衣掛神社境内
文化遺産情報 毎年12月31日の午後5時から6時に行われる神事で、古いお札・お守りに感謝の気持ちを込めて、境内中央に掘られた穴に入れお焚き上げする。12月20日から焼納受付箱を置き、お札・お守りなどを受け付ける。現在、国分小学校区には三神社あるが、焼納祭は衣挂神社だけが行っている。

衣掛神社焼納祭の様子と位置図

筑前国分尼寺跡

登録番号 E0053
名称 筑前国分尼寺跡
所在場所 国分2丁目
文化遺産情報 天平13年(741)年、聖武天皇の命により鎮護国家・五穀豊穣を祈るために全国に建立された寺の1つ。正式名称は法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といい、10人の尼僧が置かれた。国分尼寺は、8世紀後半に造られ100年ほどしか存続しなかったと推定され、跡地は現在田圃になっている。

筑前国分尼寺跡画像と位置図

筑前国分尼寺南側の境界線

登録番号 E0054
名称 筑前国分尼寺南側の境界線
所在場所 国分2丁目
文化遺産情報 筑前国分尼寺の領域を区切る南側の境界線。現在は有料駐車場と個人宅との敷地境界線となっている。

筑前国分尼寺南側の境界線付近の風景と位置図

筑前国分尼寺の東側の道

登録番号 E0055
名称 筑前国分尼寺の東側の道
所在場所 国分2丁目
文化遺産情報 筑前国分尼寺の東の境界に沿って現存する道路。

筑前国分尼寺の東側の道画像と位置図

陣ノ尾川沿いの道

登録番号 E0056
名称 陣ノ尾川沿いの道
所在場所 国分2丁目
文化遺産情報 昔、国分地区は天満宮を中心とする地区を「ムラ方」、旧街道沿の地区を「マチ方」と呼んでいた。このムラ方とマチ方を結ぶ唯一の道が陣ノ尾川沿いの道であった。以前は木々が鬱蒼と生い茂る道で、人家もあまり無かったためか、「陣ノ尾婆の伝説」が伝えられていた。

陣ノ尾川沿いの道の風景と位置図

陣ノ尾川の側溝

登録番号 E0057
名称 陣ノ尾川の側溝
所在場所 国分2丁目
文化遺産情報 国分小学校の児童が、川に降りて遊ぶ風景を見ることができ、むかしの風情をしのぶことができる。

陣ノ尾川の側溝画像と位置図

薬師堂

登録番号 E0142
名称 薬師堂
所在場所 国分2丁目
文化遺産情報 祠内に石造の薬師如来坐像と切石の南無妙法蓮華経の文字がある石塔が祀られる。切石の石塔は管理者の義母が交通事故防止を願って祀った。旧日田街道沿いに建っている。旧平嶋家の屋敷跡にある。

薬師堂画像と位置図

陣ノ尾1号墳

登録番号 E0144
名称 陣ノ尾1号墳
所在場所 国分2丁目
文化遺産情報 国分に所在する4基からなる古墳群の1つ。1号墳(市指定)は横穴式石室をもつ6世紀後半の円墳で、鉄鏃・耳環など出土した。

陣ノ尾1号墳画像と位置図

水城跡

登録番号 E0145
名称 水城跡
所在場所 国分1丁目・国分2丁目・市外(大野城市)
文化遺産情報 唐・新羅の来襲に備えて、天智天皇3年(664)に築造された土塁。日本書紀に「大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城といふ」とあり、記録上確認できる日本最初の城である。現存の堤防は高さ13メートル、幅約80メートル、全長1.2キロメートル、博多側に幅60メートル、深さ4メートルの外堀が確認されている。

水城跡上空写真と位置図

妙見祠(町方)

登録番号 E0152
名称 妙見祠(町方)
所在場所 国分2丁目 陣ノ尾の山の水城寄りの尾根
文化遺産情報 昭和18年(1943)頃、造り酒屋を営んでいた住民の方が祀ったもの。お祀りした理由は、四王寺毘沙門堂へお参りするのが遠かったことと、戦時中に亡くなった人の供養としてお祀りされたという。当初は石造の扉があったが無くなり、御神体も行方不明である。現在は鉄製の小鳥居が残っている。

妙見祠画像と地図

供養塔

登録番号 E0153
名称 供養塔
所在場所 国分2丁目(衣掛神社の裏山付近)
文化遺産情報 昭和33年(1958年)頃、畑の拡張工事に際して古墳が出土し、鏡山猛・長沼賢海両氏が発掘にあたり石棺・かめ棺・土拡墓などが確認された。この時発見された人骨を供養するために建てた供養塔である。石碑は高さ100センチメートルほどの自然石で、榊と水が供えられている。

供養塔画像と位置図

供養塔の桜

登録番号 E0154
名称 供養塔の桜
所在場所 国分2丁目 衣掛神社の裏山付近
文化遺産情報 国分2丁目の衣掛神社裏山にある桜の木。供養塔を見守るように巨木が4本育っており、枝が大きく広がり桜花が心を和ませてくれる。この桜は元来この土地にあったものではなく、土地の所有者が植えたものという。

供養塔の桜画像と位置図

衣掛神社(衣挂天神)の参道(改修)

登録番号 E0156
名称 衣掛神社(衣挂天神)の参道(改修)
所在場所 国分2丁目(衣挂神社)
文化遺産情報 平成22年(2010年)11月5日より11月末まで、参道を石畳にする改修工事を氏子達自らの手で行った。石は中国から輸入したもので、地固め用の工具も氏子手作りのものを使用し、延人数45名で実施。延日数11日で工事は完成。

衣掛神社の参道画像と位置図

国分小裏山より見る四王寺山(秋の風景)

登録番号 E0162
名称 国分小裏山より見る四王寺山(秋の風景)
所在場所 国分2丁目 国分小裏山
文化遺産情報 国分小学校より徒歩5分の場所にある見晴台。秋には正面に赤・黄に染まった四王寺山の美しい紅葉が見られる。

国分小裏山より見る四王寺山の紅葉風景と位置図

万葉歌碑 娘子児島・大納言大伴卿

登録番号 E0167
名称 万葉歌碑 娘子児島・大納言大伴卿
所在場所 国分2丁目(水城東門跡の公園)
文化遺産情報 730年に大宰師大伴旅人は大納言となり、大宰府を離れることとなった。旅人が都へ帰る際、水城に見送りに来てくれた官人達と共に居た遊行女婦児島が詠んだ歌と、それに応えた旅人の歌が記されている。もとは姿見の池に所在していたが、整備事業に伴い2011年11月頃に現在地へと移転した。

万葉歌碑娘子児島・大納言大伴卿画像と位置図

衣掛神社(衣挂天神)の宮座

登録番号 E0173
名称 衣掛神社(衣挂天神)の宮座
所在場所 国分2丁目(衣挂神社)
文化遺産情報 年に一度行われる神事であり、氏子の総会の意味を持つ行事。現在は、氏子総会、神事、奉納、御神酒、謡曲、会食という流れで行われている。お供え・料理・持ち回りの道具などについて記載してある記録が、宮座帳として昭和30年から代々受け継がれている。

衣掛神社の宮座の様子と位置図

衣掛神社(衣挂天神)のヨド

登録番号 E0174
名称 衣掛神社(衣挂天神)のヨド
所在場所 国分2丁目(衣挂天神)
文化遺産情報 ヨドとは、各ムラの氏神やムラに祀られている神仏の夏祭りのことで、ヨドは「宵祭り」を意味する。衣挂神社では開催の前日から御神燈作りなどを行って準備している。

衣掛神社のヨドの様子と位置図

衣掛神社(衣挂天神)のほんげんぎょう

登録番号 E0175
名称 衣掛神社(衣挂神社)のほんげんぎょう
所在場所 国分2丁目(衣掛神社)
文化遺産情報 前日の1月6日午後2時より準備を開始。氏子の方々が12,13名集まり、お宮の裏山から孟宗竹や笹を切り出し、衣挂神社では櫓を「井」桁に組む。翌早朝総代さんが点火し、燃え上る炎とともに竹が焼けて「パーン」と鳴る音が今年一年の災いを払い落とすと考えられている。

衣掛神社のほんげんぎょうの様子と位置図

老松図

登録番号 E0176
名称 老松図
所在場所 国分2丁目
文化遺産情報 太宰府市国分の衣挂神社に奉納された絵馬の一つ。板地で、大きさは縦51.0センチメートル、横186.0センチメートル。昭和28(1953)年に制作されたもので、山本南窓の作である。松が枯れたのを惜しんだ氏子が、近くに在住の中学校の美術教師山本南窓氏に依頼して制作したもの。

老松図画像と位置図

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