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7.菅原道真と太宰府天満宮

ページID:0001022 更新日:2016年8月31日更新 印刷ページ表示

学問の家に生まれ、右大臣にまでのぼりつめた菅原道真(すがわらのみちざね)でしたが、左大臣藤原時平の圧力によって昌泰(しょうたい)4年(901)、大宰権帥に左遷されました。

大宰府での暮しは都とはうって変わって侘(わび)しいもので、与えられた官舎(南館)は床も朽(く)ち屋根は雨漏りするようなありさまでした。
そこで失意のうちに2年間を過ごし、延喜(えんぎ)3年(903)に亡くなります。その遺骸を牛車(ぎっしゃ)に乗せて運んでいたところ、牛が動かなくなり、そこに埋葬しました。その地が現在の太宰府天満宮であり、大宰府での住居・南館の地が現在の榎(えのき)社と伝えられています。

太宰府天満宮は、安楽寺(あんらくじ)ともいいました。まず、延喜年中に御廟(ごびょう)が建てられ、その後、大宰府官人として赴任した中央貴族たちによって次々と堂宇(どうう)が寄進建立(きしんこんりゅう)されて寺院の形が整えられていきました。
荘園を40ヶ所以上持ち、平安時代の11世紀から12世紀にかけての頃が最盛期だったようです。

戦国時代、度々の戦乱に巻きこまれて社殿は焼き討ちにより焼損、一時荒廃しましたが、豊臣秀吉の時代、筑前国の領主になった小早川隆景(こばやかわたかかげ)によって本殿が再建され、続く江戸時代も藩主黒田氏によって復興が行われました。

このようにして、菅原道真は文道・学問の神として人々の信仰を集め、今日に至っています。

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