大宰府が置かれた筑紫の地は、日本と大陸の接点に位置し、国内はもとより東アジア全体の動向を敏感に反映し、歴史上重要な役割を担ってきました。後漢の光武帝より「漢委奴」の金印が与えられた奴国、女王卑弥呼が一大率を置いた伊都国など、弥生の昔より大陸との交渉の中心でした。 それは大和朝廷統一後も変りなく、朝鮮半島の情勢を反映してますます重要さを増したことが、様々な歴史資料から伺えます。
660年、親交の深かった百済が唐・新羅に滅ぼされ、我国に助けを求めてきます。 これを受けて時の天皇、斉明女帝は自ら筑紫に下り、百済救援を指揮しようとします。 皇太子中大兄皇子以下、朝廷を挙げて筑紫に下って来ますが、まもなく女帝は朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉市)で没し、663年朝鮮半島の白村江の戦いで百済・日本連合軍は、唐・新羅軍に大敗を喫し、半島からの完全な撤退を余儀なくされました。
そして唐・新羅に脅威を感じた日本は天智3年(664)対馬・壱岐及び筑紫に防人と烽を置き、筑紫には大堤を築いて水を貯えた水城を造ります。 翌年には、百済の亡命貴族を遣わして大野・椽の両城を築かせています。
このような防衛施設の大土木工事が次々と着手される中、これらに守られた地に「大宰府」が設置されたと考えられます。
正確な年号は不明ですが、大宰府跡の発掘調査の結果も、7世紀後半の掘立柱建物が下層から検出されるなど、この頃「大宰府」が置かれたことを示唆しています。
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